_DSC1129
2018-03-22

日本ヒップホップの先駆け!音楽活動にとどまらない、音楽プロデューサー・佐々木潤の生き方。

SAHRE on

佐々木潤(ささき・じゅん)
1966年生まれ、宮城県仙台市出身。スタイリストとして活動後、DJとして音楽活動を開始。FUNK MASTER GO-GOでデビュー後、COSA NOSTRA、PEACE FORCEなどの活動を経て、MISIAの楽曲をプロデュース。音楽プロデューサーとして活動する傍ら、モデル、俳優、フォトグラファーなど多方面で活躍する。

ひとつの職業や場所に固執せず、様々な活動を並行して行う「多動力」という言葉が昨今、ひとつのブームになっています。今回は、音楽家、スタイリスト、フォトグラファーと、まさに多動力という言葉が相応しい活動をしてきた佐々木潤さんに、これまでの歩みと、そのこだわりについて話を伺います。

日本のヒップホップの産声

――音楽業界に進まれる前は、スタイリストのお仕事をされていたそうですね。

洋服が好きで、十代の頃はファッショニスタが集まるようなクラブに通っていました。そこでファッション業界の人と知り合いになって、スタイリストの仕事を請けるようになったんです。まだ、大学に通っている頃でしたが、他のアルバイトと比べてもお金がよくて(笑)そのころのクラブでハマったのがP-FUNKという音楽ジャンル。それで、当時P-FUNKのイベントに通っていたら、DJの小林径さんと仲良くなり、「一緒にDJやろうよ」と声をかけられたのがDJをはじめたキッカケです。

――DJの文化自体もまだ今ほど盛んじゃない頃ですよね。

当時のDJは、六本木で照明係から修行してからみたいなタイプと、僕みたいに音楽をファッションのひとつとして受け止めていた人がはじめるパターンのどちらかでしたね。それでその頃、高樹町(※)に「バブリンダブ」というファンクとレゲエを半々ぐらいかけるクラブがあって、HYSTERIC GLAMOURのノブちゃん(北村信彦)と組んで、イベントのオーガナイズをやっていたんです。そこで一緒にやっていた井嶋カズや木村コウとかとグループ組んで、DJ&ラップのグループ「FUNK MASTER GO-GO」を結成。それでポリドールから1987年にデビューしました。

※東京都港区青山、骨董通りの東側半分の周囲から西麻布も含めた六本木通り周辺に存在したかつての町名。現在は六本木通りと骨董通りの交差点にその名を残す。

――日本のヒップホップがまさに産声をあげた頃ですね。

ちょうど日本にヒップホップが入ってきたタイミングでした。周りだと、ヒロシ君(藤原ヒロシ)と完ちゃん(高木完)のタイニー・パンクス、俊ちゃん(中西俊夫)のTYCOON TO$H & TERMINATOR TROOPSあたり。芝浦にインクスティック(インクスティック芝浦ファクトリー)という箱でよく一緒にやっていて、すごく盛り上がりました。

――僕は、スチャダラパーあたりから聴きはじめた世代なので、それよりも前ということですよね。

スチャダラパーと言えば、彼らがデビューのキッカケとなったDJのイベントで、僕は審査員として参加していましたよ。

――まさにヒップホップレジェンドのお一人じゃないですか。

世代的にそのあたりにいただけです(笑)当時のヒップホップは、まさにファッションカルチャーのひとつだった。Run-D.M.C.を真似て、当時廃盤だったadidasのスーパースターを探し回り、靴紐取って、ベロを出して履いていましたね。

時代を駆け抜けた“目覚め”

――プロの音楽家になりたいという夢は昔からですか?

小・中学校でピアノやっていて、中学の時にバンドをやっていましたが、プロのレベルには届くとは思えず、目指す前に“諦めていた”感じでした。だけど、ヒップホップがその夢を“目覚め”させてくれた。音楽的知識がなくても、好きなフレーズをサンプリングして、ループしてラップを乗せれば音楽になる。僕を音楽の世界へ後押ししてくれたのが「サンプリング」という技術。それに勇気をもらって、進むことができたんです。

――その後、伝説のユニットであるCOSA NOSTRAですよね。

桜井鉄太郎さんが、高樹町に「ラント」という音楽スタジオをやっていて、彼もクラブが好きで、僕らみたいなDJとミュージシャンを集めて作ったのがCOSA NOSTRAです。ゲストボーカルを立てて、それをプロデュースするみたいなカタチのユニットでした。

――その頃、僕はちょうど渋谷系にハマっていて、COSA NOSTRAのCDも買いました!まだ実家にあると思います。当時としてはボーカルがいないプロデューサー集団って珍しいですよね。

ただ、僕はまだ若くて、もっと別のことをしたいと思っちゃったんです。それで、Mr.Childrenとかのフォトグラファーをしていた稲葉ゲンと、m-flowのスタイリストとかしていた神山くん(神山広明)と、「PEACE FORCE」というユニットを組んで、COSA NOSTRAと並行して活動していました。
ロックに気持ちが傾いていた頃だったので、PEACE FORCEでは打ち込みでできるロックをやっていたんです。コンセプト的には、ファッションと音楽をロックに通してみたいな(笑)それで、デニス・ホッパーが主演したTOYOTAのセリカのCMに僕らが曲を提供することになって、タイアップが決まったもんだから、メーカーに提案してBMGビクターからデビューすることになったんです。

――曲のタイアップが決まったから、メジャーデビューの話を持ち込んだって、通常の逆ですよね。斬新すぎます。

そのBMGビクターの流れで一緒に仕事するようになったのが、当時ディレクターだった与田春生。実は大学の後輩なんです。それで、彼が福岡からすごいボーカルを連れてきたから彼女のセカンドシングルを作ってくださいと言われた、そのボーカリストがMISIAです。

* * *
次回は、MISIAさんの話から、フォトグラファーとしてサザン・オールスターズのジャケットを手がけた話など、さらに広がる佐々木さんの活動について伺います。

(取材・文 黒宮丈治)

PHOTO GALLERY

SAHRE on

KEYWORDS

RELATED ARTICLE

音楽プロデューサー・佐々木潤が語るMISIAとの出会い。そして、「多動力」とは?
仕事も音楽も楽しむオープンな空間。<br />壁を取り払った先にあるライフスタイル
バレエから歌舞伎、そして舞踊家へ。<br />梅川壱ノ介の人生を突き動かす3つの支え
なぜアパレル業界へ進出?<br />美容師歴26年・渋谷「bloc」代表山本洋史氏の生き方
きっかけは妻との出会い。<br>ミニマルな生活のいまも手放せない思い出のもの。
スライスピザの第一線。<br />本場顔負けの味と空間、代官山「ピッツァ スライス」

RANKING

FEATURE

FOLLOW US最新情報をお届け!

RECOMMEND

_DSC1093

音楽プロデューサー・佐々木潤が語るMISIAとの出会い。そして、「多動力」とは?