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2017-10-26

きっかけは妻との出会い。
ミニマルな生活のいまも手放せない思い出のもの。

SAHRE on


品田英雄(しなだ・ひでお)
1957年生まれ。80年学習院大学法学部卒業後、ラジオ関東(現ラジオ日本)へ入社。87年日経マグロウヒル(現日経BP社)入社後、エンタテインメント業界向けの週刊誌「日経エンタテインメント」記者、開発室などを経て、97年にエンタテインメント総合誌「日経エンタテインメント!」の創刊編集長に就任。03年同誌発行人に就任、07年同誌編集委員に就任。現在は日経BP総合研究所上席研究員。

他人から見れば価値が無いように見えても、自分にとっては誰にも譲ることのできないモノがある。人生の中で、そっと寄り添うそのモノを、わたしたちは「人生の宝物」と呼ぶ。

「流行」の最前線で、常に目を光らせる人物、品田英雄さん。ご自宅にお伺いした前回のインタビューに引き続き、今回は品田さんのこれまでの歩み、そして「人生の宝物」を紹介してもらった。

――現在お住まいの家に移られたのと、「日経エンタテインメント!」の創刊は同じタイミングだったそうですね。

「日経エンタテインメント!」が定期刊行した創刊日が1997年3月4日。現在の家は1996年につくり始めて、1997年の4月に住み始めたので、奇しくも同じタイミングでしたね。

――品田さんの人生において大きな転機を迎える時期だったわけですね。新雑誌の編集長と、新居での生活ということで気持ちはかなり高ぶっていたのではないでしょうか?

そうだといいんですが、「日経エンタテインメント!」の計画が持ち上がった頃は、会社内で95%の人が“成功しない”と不評だったんです。だから、最初の頃はとにかく成功させるために必死で、余裕なんてありませんでしたね。

――そもそも何故、総合エンタメ雑誌に挑まれたのでしょうか?

ラジオ局に勤めた後、1987年に日経マグロウヒル(現日経BP社)入社した時に記者として携わったのが“!”の無い、週刊誌の「日経エンタテインメント」でした。アメリカの「バラエティ」や「ビルボード」のような雑誌を日本でと奮闘していたのですが、6年ほど続けた後に赤字から休刊することになったんです。

そこで次の試みとして考えたのが、プロデューサーやディレクターといった、作品を“つくる”人にスポットを当てた雑誌でした。役者や歌手、タレントにスポットを当てたものはあっても、つくり手にスポットが当てたものは少なかったんです。

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